ペンケトウというのは、
阿寒湖の上流に位置する、周囲2キロほどの小さな湖である。ここは車で入って来れないので、国道から荷物を抱えて小一時間の歩きを迫られる。そのため訪れる人が少なく、俺の好みには適していた。
俺は背中にキャンプ用品と一週間分ほどの食料を入れたザックを背負って、国道を後にした。そこには蝦夷鹿が付けたものと思しき踏み跡が続いているのだが、時には人間が通って来るのでもあるらしい。こんなところに通って来るのは、間違いなく釣り人であろう。特筆すべきは、国道から放り投げられたものらしいゴミの川だった。
そんなゴミの跡も、しばらく道を進めるうちに消えてなくなり、辺りはすがすがしい緑の中を湖へと続いていく踏み跡が走っているのみだった。
横に張り出した枝を避けつつようやく湖面に辿り着くと、俺はテン場を探して回った。一番大きな流れ込みの傍には開けた場所があり、そこはお決まりのテン場となっているらしかった。俺はそこに一人用のダンロップのテントを張ると、辺りを散策して回った。
湖を半周してみると、枯れた流れ出しには、紫色のトリカブトの花が乱舞していた。このトリカブトは美しい佇まいこそ見せているものの、アイヌがその昔毒矢に使ったと言われるほどの猛毒を潜めている。対岸の細い流れ込みには小魚が群れており、彼らは俺の姿を見るとビックリして泳ぎ去っていった。そんな様子を眺めつつ、俺は一人幸せな気分に浸りながら、テントへと歩を返した。
そして自慢のハーディの竿にアブのアンバサダー5000Cをセットすると、糸の先に俺のお気に入りルアー、バッハスペシャル18グラムを結び付けて、再び湖岸へと向かった。
さて、湖岸についてアチコチ眺め回してみたものの、今回ここに来るのは初めてなので、何処がポイントなのかわからなかった。湖の水色はきわめて透明で、エメラルドグリーンをしている。まるで緑色をした色ガラスを溶かし込んだようである。
俺は手始めにキャストの調子を見るべく、遠投してみた。スプールの高速回転する音とともに、ルアーは30メーターほど沖に飛んでいった。まずまずの調子だ。
俺は魚のサイズを誇張するのが好きではないのと同じくらい、飛距離を誇張するのも嫌いだ。世間の人が言う50メートルは俺にとっての30メートル、30メートルは20メートルである。どうしてああも無邪気にごまかしが出来るものだろうか?俺はいつもそれを不思議に思う。
俺はルアーが底に着くまでのタイムを数えて、深さと岸の傾斜を先ず計った。どうやら20メーターほどまでは、目に見える岸の傾斜がそのまま湖の中へと続いているようだった。
俺は扇状にキャストを繰り返しながら、少しずつ流れ込みの方へと移動していった。時折水面に魚のもじりが見える。しかし釣れない。これは釣り師にとっては屈辱であり、悲しい事である。
やっとヒットがあったと思ったら、上がってきたのは尺ほどのアカハラだった。どうやら盛んに湖面をにぎわせているのも、こいつの仕業らしい。中々釣れない事に納得がいくとともに、がっかりする気持ちが強く湧き上がって来た。
そんな調子で俺が必死に岸から釣りをしていると、誰か他の釣り人が一人やってきて、ゴムボートを膨らませ始めた。フイゴのシュー・シューいう音がやかましい。
やっとその音が止んだと思ったら、今度はゴムボートをすいすいと漕ぎ出した。そして俺のキャストしている30メーターほど向こうを通り過ぎていく。
彼はトローリングの手法で、この小さな湖を時計と反対方向にグルグル回ることで、魚の棚を探っているらしかった。見ていると、時々リールを巻いている様子である。どうやら獲物がかかっているらしい。しかもどうやらアカハラではなく、アブラビレの付いた魚である。俺の目的としているまさにその魚である。
俺の狙っている対象魚を目の前で釣り上げられて、俺はちょっと嫌な気分がした。俺だってそれなりの腕を持った釣り師だと自負している。それなのにトローリングに負けるなんて・・・・・・。
昼も過ぎた頃、ボートの彼は釣りをいったん中断して、岸に戻ってくるようだった。彼から「どうです?釣れますか?」と声が掛かった。
俺はいささか釣り師としてのプライドを傷つけられていた事もあって、たぶんむっとした表情で「全然ダメです。」と答えたと思う。
そしてふと目を上げて彼の顔を良く見てみると、なんとそれは俺の知人であった。「何だ、おまえかぁ。」というのが彼の第一声で、「どうだ、ダメだったか?」、「ここはキャスティングじゃぁ厳しいとこなんだよ。何か一生懸命キャストしている変な奴がいると思ったら、お前だったのか。」と呆れられてしまった。
一口に北海道と言っても、広い。それが札幌から300キロ以上も離れた場所で、偶然に出くわしてしまうのだから、世界は狭いと言うか、いやぁ、悪い事はできない。
その知り合いは熊さんといって、アマゾンを一年間魚釣りのために放浪してきた経験を持つ、言ってみれば俺の先輩に当たる人だった。熊さんは北大水産学部出身の、根っからの釣りキチである。もちろん北大の水産を目指したのは、ただ魚が好きで、釣りがしたかったからだ。
その熊さんから、一緒にボートで釣りをしようぜと誘われた俺は、ありがたくお申し出を受ける事にした。熊さんにボートを漕いでもらって、俺はもっぱら竿の持ち方だ。申し訳ない気もするが、ここでは熊さんが先輩なのだから、若輩者の俺が口を出すところではない。
2人乗りの彼のボートは、実際に二人が乗って釣りをするのには狭すぎたのだが、俺の脚の間にお前の脚を伸ばしてくれというクマさんの指示に従い、狭い船内を何とか釣りに使えるようにした。
何周も行かないうちに俺の竿にもグィッと当たりが来て、巻き上げてみるとそれは尺余のアメマスだった。熊さんによると、そんなのはここのアベレージ以下のサイズらしい。時々スティールが来る事があるので、それだけには注意しろよ、竿を持って行かれてしまうからな、と親切なご忠告も賜った。
残念ながら結局その日はチップは釣れず、熊さんは「先週来た時には11本チップが釣れたんだが、今日はだめだなぁ。」と言いながら引き返していった。
そして俺には、「あんまり俺のシマを荒らすなよ。」とさりげなく注意の言葉を吐きながら。また俺が取って置きのハーディの竿をそんなブッシュの奥にまで持って来ているのを見て、「もったいなくないか?」と尋ねてきた。それに対する俺の言葉は、「竿は釣り師にとっての命、侍にとっての刀と同じですから。」というものだったが、侍にしては、俺はヘボ過ぎたのかもしれない。
熊さんの「俺のシマをあんまり荒らすなよ」発言にも拘らず、俺は程なくしてまたこの湖に足を運んだ。どうしても日本のチップの原点であるペンケトウの、阿寒の自然発生したチップが釣りたかったのである。だから今度は熊さんの真似をして、4人乗りのゴムボートまで用意してきていたのだった。
俺は通算で20日以上もこの湖岸でテントを張って過ごしただろうか。しかし俺のそんな努力にも拘らず、スティールはおろか、目的のチップは一本も釣れなかった。例によって例の型のアメマスが数本釣れただけである。この湖には、合計して五回ほども足を運んだだろうか。
しかし俺は元来退屈なトローリングという手法を好まないせいもあって、チップを一本も釣る事なく、ここでの釣り旅を終えたのだった。熊さんとの別れ際に聞いた言葉、「ゴミを沢山釣り場から拾って帰れば帰るだけ、それだけ釣果が増えるんだよ。」というそのジンクスを信じ、俺がゴミ袋20リットル分数袋を持ち帰った事は嘘ではない。
だから一時なりとも、ペンケトウの湖岸はゴミのないきれいな状態であったと、俺は断言できるのである。こちらは釣果に比べ、とんでもなく大漁だった事は言うまでもない。残念ながら、俺にはそのジンクスは全く効かなかったが・・・・・。
「
放浪の釣り旅 続く」
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