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ザ・ローリング・ストーンズ (
The Rolling Stones )の
アイ・キャント・ゲット・ノー・サティスファクション( I can`t get no Satisfaction ) です。単に
Satisfaction と呼ぶ事もあります。
この曲はかなり反体制的な彼等のバンド・イメージをはっきり打ち出したものでもあります。ごく初期から、ザ・ビートルズとは違う売り出し方をしていた事が良く分かるものです。
以下に聞き書きと当時のレコードの歌詞カードから、歌詞を拾ってみたいと思います。
I can`t get no Satisfaction by The Rolling Stones : 1965
I can`t get no Satisfaction
I can`t get no Satisfaction
Cause I try, and I try, and I try, and I try
I can't get no, I can't get no
When I'm driving in my car
And that man comes on the radio
He is telling me more and more
About some useless information
Supposed to fire my imagination
I can't get no, no, no, no
Hey, hey, hey, that's what I say
I can`t get no Satisfaction
I can`t get no Satisfaction
And I try, and I try, and I try, and I try
I can't get no, I can't get no
When I'm watching my TV
And a man comes on to tell me
How white my shirts can be
But the man ain`t be a man, cause he doesn't smoke
The same cigarrettes as me
I can't get no, no, no, no
Hey, hey, hey, that's what I say
I can`t get no Satisfaction
I can't get no girl with reaction
And I try, and I try, and I try., and I try
I can't get no, I can't get no
When I'm riding round the world
And I'm doing this and I'm signing that
And I'm trying to make some girl
Tell me baby, better come back, maybe this week
Cause you see I'm on losing streak
I can't get no, ah no, no, no
Hey, hey, hey, that's what I say
I can't get no, I can't get no
Satisfaction, satisfaction, satisfaction, satisfaction, no satisfaction
No satisfaction, I can't get no, no satisfaction
比較的簡単な単語ばかりですが、例によって以下に僕なりの意訳を書いておきます。
俺は全然満足することができないんだ、俺は全然満足することができないんだ
だって俺は努力して、努力して、努力して、その上にまだ努力しているんだ
(なのに)俺は全然、俺は全然(得られるものがないんだ)
俺が自分の車を運転していると
カーラジオに男が出てくるんだ
(そして)俺に益々際限なく話し続けるんだ
役にも立たない情報ばかりを
どんなに俺の想像力をもっと燃え上がらせるべきかを
俺には全然(得られるものがないんだ)、おぉ、全然、全然、全然駄目だ
ヘイ、ヘイ、ヘイ、それが俺の言いたいことなのさ
俺は全然満足することができないんだ、俺は全然満足することができないんだ
そして俺は努力して、努力して、努力して、その上にまだ努力しているんだ
(なのに)俺は全然、俺は全然(得られるものがないんだ)
俺が自分の部屋でテレビを見ていると
男が一人、俺に語りかけるために出てくるんだ
どんなに俺のシャツを白く洗い上げることができるかって
でも、その男は男じゃあり得ないぜ、だってタバコ(マリファナ)を吸わないってんだから
俺(が吸っているの)と同じ銘柄のシガレットさ
俺には全然(得られるものがないんだ)、おぉ、全然、全然、全然駄目だ
ヘイ、ヘイ、ヘイ、それが俺の言いたいことなのさ
俺は全然満足することができないんだ、俺は全然(やっている)女のリアクションに満足することができないんだ
そして俺は努力して、努力して、努力して、その上にまだ努力しているんだ
(なのに)俺は全然、俺は全然(得られるものがないんだ)
俺が飛行機に乗って世界中を飛び回っている時
そして俺は実際にこれをやってるんだ、そしてその契約書にサインしてるんだ
そして女を何人か作ろうとしてるんだ
俺に言ってくれ、ベイビー、(俺のところへ)帰って来た方が良いって、たぶん今週中にな
だってほら、俺は裸になっても負け続けだからな
俺には全然(得られるものがないんだ)、おぉ、全然、全然、全然駄目だ
ヘイ、ヘイ、ヘイ、それが俺の言いたいことなのさ
俺は全然、俺は全然(得られるものがないんだ)
俺は全然、俺は全然(得られるものがないんだ)
満足が、満足が、満足が、満足が、全然不満足なんだ
全然不満足なんだ、全然満足を得ることができないんだ、全然不満足なんだ
かなり意訳も取り入れてみましたが、そんなに歌の本筋からは離れていない事と思います。まぁ、一言で言ってしまえば欲求不満の歌、自分のイライラを歌にしてぶちまけている、そんな感じの曲ですね。
特に若い方にはそういう感情も強いものですし、年老いた方のように諦めとか妥協、経験から来る人生の知恵なんて若い方には分かりませんから、この曲は若い世代には相当な熱意を持って受け入れられたんですね。それは英国という特殊な国情も背景にあるのですが、それは今回は述べないままで、この記事は終わりたいと思います。
まぁ、
ほんの少しだけは以前触れたこともあるので、ご興味のある方はこちらを参照 してみてください。
またリンクが切れていましたら、
こちらで検索 してみてください。
※リンク切れが見つかりましたら、コメント欄より教えていただけると幸いです。
テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽
さて、俺は
オークランドの街中 を歩き回って、ようやく6ヶ月間の滞在ビザだけは手に入れたのであるが、まだまだやらなければならない事は多かった。当時はインターネットなんかなかったし、書籍くらいが手に入る最上の情報だった。
もちろん俺もガイドブックを一冊買っていたのだが、それには十分に詳しく一人旅の事になんて述べてなかったし、ましてや釣りに関しての記述なんて、一行か二行、サラッと述べてあるだけだった。ちなみに一人旅をするつもりなら、日本のガイドブックなんかより、
Lonely Planet の方がずっと役に立つ。「地球の歩き方」なんかは内容がしょぼ過ぎて、とても本当に地球の歩き方が分かっている奴が書いているようとは思えない。
そういう訳で、俺は先ずライセンスがどうなっているのか調べるべく、釣具屋へ行ってみる事にした。釣具屋の態度はひどく悪いものではなかったものの、ひどく良いとも言えないものだった。一言で言えば、ほら、また来やがったぜ、そんな日本人を小馬鹿にした調子が見え透いていた。
だから俺は大して釣具は買わなかったが、ライセンスのことについてはキチンと聞いておく事にした。それによると、インフォメーションセンターに詳しい情報があるはずだから、そこへ行けという事らしかった。
後、フィッシュ・アンド・ゲーム・カウンシルというのが釣り全体の管理をしている機関であるという事も教わってきた。釣り場のことは、鼻から相手にしてもらえない感じだった。教えて欲しければ、金を出せという感じがプンプンしていた。
俺は次に本屋へ向かった。地図と釣り場情報を得るためである。オークランドの本屋は日本のそれに比べるとしょぼく、彼等の文化程度が透けて見えた。英語圏であるニュージーランドでは、アメリカやイギリスの書物をそのまま流通させる事ができる。
しかし置いてある書籍の数は、神保町を見慣れた俺にとってはあまりにも少なかった。そして何よりも俺を驚かせたのは、日本ではコンビニでさえ売っているマップルのような詳細な地図が、見当たらない事だった。何かの冗談かと思っていたが、地図専門売り場に行っても、そんなものは見当たらなかった。大体その地図専門売り場というもの自体、かなりしょぼ過ぎて役に立たないものなのであるが。
結局俺が何とか使えるものとして選んだものは、
New Zealand Road Atlas という、
通称AA 、つまりは
自動車協会 の発行する道路地図のみだった。それがかの地では唯一手に入るまともな道路地図であり、他の選択肢はなかった。例えば日本の国土地理院が発行しているような、1/50000とか1/25000の地図なんてあり得ない。ひょっとしたら軍や測量向けに存在しているのかもしれないが、一般人に解放されてはいないようだった。
俺は
釣りの情報 を書いた
本 を数冊、その地図とともに買い求めて、連泊している
YMCA の宿とへ帰る事にした。そして先ずはどういう順路でニュージーランドを回るか、何処から始めるか、どういうスタイルで釣りをして回るかという事を検討した。
しかし何分俺は初めての海外の釣り旅だったので、そして俺の英語力はあまりにも貧弱だったので、日々食べ物を買うのでさえやっとという有様だった。俺は生まれ付き無計画な方なので、行けば何とかなる、言葉も3ヶ月もいれば分かるようになるだろうくらいの認識しかなかったのだが、考えてみればその3ヶ月が過ぎるまでにどうやって過ごすかまでは全く考えておらず、良く日本人が携帯する簡便な英会話集といったものさえ、買い求めて来てはいなかった。代わりに俺が持って来たのは、今でも手元において使っている、水分を含んでボロボロになりかけた旺文社の Senior 英和辞典である。こんなものは重いだけで、とっさの役には全然立たなかった。むしろ俺が必要としていたのは、英和よりも和英辞典の方だったのである。
しかしおのれの過ちと軽率さを嘆いても、もう現地に来てからでは遅すぎだ。俺はとりあえず必要なものを買い集め、どうやら熱も少し出てきたようだったので、Pharmacy (薬屋)に行く事にした。ニュージーランドは英国英語が話されているので、ドラッグストアというものはない。薬屋はファーマシーだし、ゴミは Rubbish (ラビッシュ)だ。アメリカで言われているような Garbage (ガルベージ)という言葉も普通は通じない。ファック・ユーとは言わない代わりに、やたらと Bloody (ブラディ)を使う。
話がつい反れたが、俺はそのファーマシーでどうやら風邪を引いたようだから、薬を買いたいと言った。眼鏡をかけた白人の店主は如何にも賢しい顔をしていたが、人間は悪くないようだった。そして俺が一人旅でこれからニュージーランドを回るという事情を聞きだすと、俺に念を押してこう言った。「概して、ニュージーランドの人々はフレンドリーだ。しかし十分に身の回りに注意を払って、決して気を許すな。特に金目のものには気を付けろ。日本と違って、ここはそんなに安全な国じゃないんだ。」
俺は年寄りが若者に説教するようなものだろう、とこの話を半分聞き流していたのだったが、後日この国の現実を思い知らされる事になるとは、まだ知る由もなかった。彼が親切で言ってくれたであろうその言葉も、俺には早過ぎて半分ほどしか理解できていなかったが、分かった振りをしてふんふん頷いて聞いていた。俺が店を出て行く時にも、彼はこいつ大丈夫かなという顔をして、店の外まで見送って出たものである。半分は困ったものだ、半分は心配だ、そんな感じに見えた。
さて、俺の釣りのやり方だったが、まだ決定的な方法というのは見付け出せていなかった。だからとりあえずはロトルア(
Rotorua )辺りに行ってみて、そこでレンタカーを探してみてはどうだろうという案に辿り着きそうだった。何しろ一口にニュージーランドと言っても広い、日本の七割方の面積がある訳だから、かつて日本を釣り放浪して回った俺には、その大変さは良く理解できていた。同じ車を借りるにも、オークランドは都会過ぎて、何処から手を付けて良いのか分からなかった。もっと田舎に行けば、レンタル運賃も安いかもしれない。そう俺は考えた。
ロトルアまで最も安く行く方法はバスだったので、俺はそれをロトルアまでの交通手段として選ぶ事にした。とりあえず荷物がとても重くて大変だったので、俺はバスのターミナルまで贅沢にも、タクシーを使う事にした。顔馴染みになってしまったフロントのウィンディに「タクシーを呼んでくれ」と頼むと、彼女は快く引き受けてくれた。変な日本人が長逗留していたので、彼女としても少々気味が悪かったのかもしれない。
いずれにしろ、彼女はタクシーはすぐ来るから、荷物を下に持って降ろしてらっしゃいよと言ってくれた。俺は背中にザックを、手には有り余る荷物を抱えて、ふうふう言いながら階段を下って行った。タクシーはすぐに来てくれ、運ちゃんは気の良い
マオリ (
Māori )族だった。
マオリ族 というのはニュージーランドの先住民であり、英国から侵略してきたアングロ・サクソンたちと戦った名誉ある戦士の末裔である。今ではかなり混血が進んでしまっているが、それでもマオリは自分たちの先祖の受けた屈辱と、民族の誇りを忘れてはいない。元々英国人自体が他国人、特に有色人種を下に見下す傾向が強くあるせいか、マオリたちは民族同士で結婚する例が今も多い。
彼らは白人と違って、日本人を頭から見下したりする事はない。むしろ、そんな人種差別的な環境の中で生きているためなのだろう、日本人に対してきわめて友好的な態度で接してくる例が多い。これは旅行者としても嬉しいものである。白人何するものぞ。所詮くそったれの侵略民族の末裔ではないか。俺はそういう傲慢な白人たちが大嫌いである。
さてさて話がまた脱線してしまったが、タクシーの中では運ちゃんの話が弾んだ。彼はとても陽気で親切だった。そしてバスの乗り方についてのアドバイスもしてくれた。俺は良く彼に礼を言い、少しだけだがチップも渡しておいた。彼は上機嫌のまま、ターミナルから走り去って行った。彼に幸あれ。
俺はバスターミナルの発券所まで行くと、ロトルアまでの切符を買い求めた。その前にこんな冗談がある。何処そこまでというのを何と言って良いか分からない日本人が、とりあえず To **** と言ってみた。そしたら券が二枚出て来た。あわてた日本人は、For **** と言ってみた。そしたら何と、今度は四枚切符が出て来たというのである。もちろん半分は嫌がらせである訳だが、こういういやらしいやり方を彼らは本当にする。そして発音が悪いとか言って、また馬鹿にする訳である。
だから俺も同じ目に会ったら嫌だなぁと考え込んでいたのだが、単に Rotorua、only single person と言えば、バス券売り場の白人のお姉ちゃんは、面白くもなさそうに無愛想に切符ととお釣りを返して寄越した。カウンターの後ろでヒソヒソ言う声が聞こえたが、何するものぞ。バスに乗り込んで、後はロトルアに到着するまでの数時間を待つのみである。座席は全て指定になっているのだが、なぜか俺の周りだけは空席になっており、俺は何の意図があるのとか少しの間考え込んだ。もちろん日本人隔離策の一環なのだが、狭いところにギュウギュウ詰めにされる事を思えば、これくらい空間のある方が俺にとってもありがたい。別に白人と仲良くなりたいと思って、釣り旅に来た訳でもないからだ。
俺は100キロ以上の高速で走り去る窓の外の景色を眺めつつ、これから巡り会うであろう釣りの場面場面を、そして橋を渡るごとに何か魚の気配はないかと、一人思いを巡らせていたのだった。
「
放浪の釣り旅 続く 」
テーマ:ニュージーランド - ジャンル:海外情報
※この日記は、2006年12月20日に書いたものです。
今日、コメント欄に立て続けに投稿がありました。IP アドレスからすると、どうも擬装しているようですが、これは三馬鹿特定アジア人確定ですね。
証拠写真は、こちらにアップしておきました 。
ご覧になってみれば分かるとおり、メールアドレスも無茶苦茶ですが、一部は IP を逆引きして調べたところ、何とご苦労な事に ar (アルゼンチン: Argentine )からですね。まぁ、遠いところからご苦労様なことです。この国にも中国人や朝鮮半島人がが沢山移民して行っているのですが、ご存知の通りアルゼンチン経済はもう破綻していますね。韓国と一緒です。北朝鮮も実質的にはとうに破綻していますし、中国はすぐ目前です。
でも悲しい事に、彼らは他人を羨んだり、嫉んだり、恨んだり、貶したりする事くらいしかできないんですね。史実から目を背けたり、物事を歪曲したり、コピーする事はできますが、前向きに物事を捉え、過去よりも未来を見詰めて、それに向かって努力しようという気概はありません。誠に悲しい性ですが、これが特定アジア人の正直なクオリティです。まぁ、厳しい言い方ですが、本当のことなんですから、これはどうしようもありませんね。
でもその必死さ、人を何とか中傷しよう、嫌がらせをしてやろうというそのいやらしさ、人間性の卑しさとおぞましさにおいては、彼らは一流です。この点では、日本人は彼らに勝てませんね。それとしつこさ、これも彼らに分配が上がるでしょう。
ですから
僕が特定アジアのことを何か書くたび に、
こうして嫌がらせしようとする んですね。馬鹿馬鹿しいですね。だって元々コメントもトラックバックも、僕が承認しない内は公開されない仕組みになっているんですから。ですから嫌がらせをするだけ、これは時間の無駄です。
それどころか、益々自分たちに不利な証拠を振り蒔いたり、自分たちが愚か者であるという事実を世界中に吹聴し、宣伝して回っているようなものです。こちらはただ座って、彼らがヒステリーを起こして暴れ回っている様を眺めているだけで充分ですね。微苦笑を浮かべているだけで沢山です。
まっ、くやしかったら、せめて今度からはコメントくらいは日本語で入れてみる事ですね。ただし嫌がらせは嫌がらせですから、その辺はキッチリと公開させていただく事により、おのれの行った恥ずかしくて愚かしい所業を皆さんに知っていただくようにしたいと思います。中国にもあるんでしょうが、「因果応報」、この言葉を彼らにはお送りしたいと思います。
テーマ:どうでもいいこと。 - ジャンル:日記
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ (
Michel Eyquem de Montaigne )のエセー(邦題:随想録)です。エッセイという言葉はあまりにも日本では一般化していますが、これがモンテーニュのエセーからきている事を知る人は、それほど多くないかもしれません。
エッセイというのはレ・エセー(
Les Essais )で、元々のオリジナルの使用はモンテーニュからですね。これの英語である Essay を日本語読みにしたものがエッセイ、つまり
随筆 と言われているものです。
もちろん随筆自体は日本にも古来からありましたが、エッセイという呼び名は外から入って来たものです。これは英語圏も同じですね。
それが今では文学やノンフィクション、コラムの一ジャンルとして確立するほど大きな市場になっているのですから、世の中というものは分からないものです。
さて、そのモンテーニュのエセーですが、全体として見ればきわめて長い本ですね。岩波文庫版でも、分厚い6冊分に分かれています。
大陸からの文学は長い傾向にあり、島国である英国や日本などでは短編が好まれる傾向があるのですが、やはりフランスもユーラシア大陸の中の一国家ですから、長いものが多い傾向があります。
ただ、モンテーニュはその巻頭の中でこう書いていますね。
読者に
読者よ、これは正直一途の書物である。はじめにことわっておくが、これを書いた私の目的はわが家だけの、私的なものでしかない。あなたの用に役立てることも、私の名誉を輝かすことも一切考えなかった。そういう試みは私の力に余ることだ。私はこれを、身内や友人たちの便宜のために書いたのだ。つまり彼らが私と死別した後に(それはすぐに彼らにも起こることだ)、この書物の中に私の生き方や気質の特徴をいくらかでも見いだせるように、また、そうやって彼らが私についてもっていた知識をより完全に、より生き生きと育ててくれるように思って書いたのだ。もしも世間の好評を求めるためだったら、私はもっと装いを凝らし、慎重な歩き方で姿を現したことであろう。私は単純な、自然の、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは、私が描く対象は私自身だからだ。ここには世間に対する尊敬にさしさわりがない限り、私の欠点や生まれながらの姿がありのままに描かれてあるはずだ。もしも私が、今でも原始の掟を守りながら快適な自由を楽しんでいるといわれているあの民族の中に暮らしているのだったら、きっと、進んで、自分を残るくまなく、赤裸々に描いたであろう。読者よ、このように私自身が私の書物の題材なのだ。あなたが、こんなにつまらぬ、むなしい主題のために、あなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではごきげんよう。
モンテーニュにて 千五百八十年三月一日(以上、岩波文庫版からの引用)
そして著述中で、いつでも嫌になれば読むのを読めることができるし、何処からでも好きな場所からまた読み始めれば良いとも書いています。そのために細かく章によって分けられ、各々の主題についてのモンテーニュ流の考察を読むことができるようになっています。
あぁ、こんなにも沢山のことを、こんなにも真面目に突き詰めて考えた人がいたんだなぁという感じです。それは人生の処世術から政治、経済、外交、道徳、宗教、争い、人付き合い、人間の感情、教育、如何に生きるべきかといったあらゆる項目に及び、この世に迷いを抱えている人にとって、必ず救いの道筋を示してくれることでしょう。
そういう意味において、彼は巨人であり、偉人です。400年も前にこんな事を考えていた人がいたのか、それだけでも目を通してみる価値はありますね。畢竟人生というものは自分で選び取らなければならず、そして考え続けることを諦めない、この姿勢が大切という事かもしれません。
テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学
昨夜、僕の寝ている間にコメントが付けられていました。確認してみたら、リモートホスト IP アドレスが cn ( China )、つまり中国人ですね。画像で晒し上げておきましたので、
こちら と
こちら をチェックです。リモートホスト IP アドレスである gzgwbn.com.cn と投稿時刻が、見事に一致しているでしょう?
無理して英語で書いていますが、意味が全然通っていません。あなた、ひょっとして馬鹿ですか?しかも日本語が読めているかどうかも怪しいですね。僕が書いている内容に対しても、コメントとしては頓珍漢ぶりが際立っています。
さすがに特定アジアの三馬鹿トリオ、中国、北朝鮮、韓国のメンバーだけの事はありますね。しかもその宗主国様がこの有様なのですから、後のバッド・ブラザーの程度の低さは推して知るべきでしょう。
問題はこんな馬鹿な奴らが我々の国のすぐ隣に位置している事で、これは日本にとっては本当に不幸な事ですね。だからと言って国ごと逃げる事もできませんから、精々これらの馬鹿がこういう人種なのである、その事をキチンと認識して、冷静に粛々と対応していけば良いだけの話ですね。
つまり鼻から相手になる必要はありません。利用できるところは利用しておいて、不必要になったらバッサリ切り捨てれば良いだけの話です。
そう言えばうちの近所にも大勢来ていたなぁ、中国人たち。研修生の名の元に、企業で日本人労働者の1/3くらいの給料で働くんですよね。もちろんこれらの労働者は普通の中国人で、難しい頭脳労働なんかはできません。性能の悪い、怠け癖のあるロボットみたいなもんですね。
ただひとつ違う点があるとすれば、それは彼等の程度(民度とも言いましょうか?)が日本人に比べて著しく低い点です。例えば中国では、一般的な労働者というものは、これは中卒がまだ当たり前なんですね。45年前には日本でも「
金の卵 」と呼ばれてもて囃された事がある、そんな教養のない連中が、これは普通の中国人の教育レベルなんです。
ですから高校卒というと、実は周辺地域に比較して進んでいると言われる上海辺りでも、これはエリートの部類に位置するものなのです。しかしこの学歴の違い、それがまた大きな軋轢を生む訳ですね。僕の知っている例でこんなのがあります。
5人の中国人が、日本の名の通った企業の研修生として来日しました。もちろん日本に働きに行きたい中国人は腐るほどいますから、彼らはその中でも選抜されて来た、いわば中国人研修生の中のエリートです。
そんな彼らの内4人は中卒で、一人だけ、これは可愛い女の子でしたが、高校卒でした。そして半年間が過ぎ、表面上は仲良く見えた中国人研修生たちでしたが、実は根深いところでとんでもない事態が進行していたのです。
ある日、そのたった一人の高卒の女の子が、「私、もう耐えられない。中国に帰りたい。」と上司に訴えて泣き出しました。上司は言葉が良く理解できないものですから、とりあえず彼女を別の事業所に移して、そこでもう一度チャンスを与えてやろうと試みました。
でも彼女が中国に帰りたかったのは、実は本当の気持ちからではなく、ある大きな原因がありました。彼女が別の事業所に移されたその日の晩、何と残りの4人の中国人たちが、与えられているワン・ルームの寮から脱走を試みてしまったのです。
そう、つまり高卒の彼女は「女の癖に高校を出ているなんて生意気だ」という理由で、他の中卒の4人から差別を受け、ずっといじめられていたのです。そしてそのいじめが会社側にバレてしまったために、今度は自分たちの方が居心地が悪くなり、結局はグループで脱走してしまったという訳でした。
脱走した彼らは中京地方にまで逃走していた事が判明し(中狂だから、中京地方を好むんですかね?)、程なく彼らは問題を起こした、また将来脱走を繰り返して不法入国者になる可能性が高いとして、即刻退去、日本から中国に送り返されました。つまり有体に言えば、強制送還させられた訳ですね。
そしていじめられていたかわいそうな彼女、その彼女もよほど心にひどいキズを受け、傷付いたのでしょう。「もう日本に留まっていたくない、ただ早く家族のいる、故郷である中国に帰りたい」との彼女の希望で、同じく中国に戻される事になりました。
さてさて、この事件から何を学ぶ事ができるでしょう?先ず、日本人には当たり前に受け入れられている価値観が、かの地では全く通用しないという事ですね。ですからこんなつまらない揉め事でいじめが起きたり、ひどい場合には暴力騒ぎにまで発展します。
つまり中国人の人権意識がその程度のものであり、また彼等の民度や教育程度、道徳やモラルも驚くほど、日本人に比べて低いというのが事実ですね。もちろん儒教思想から来る女性差別もひどく、人権意識なんてかけらも見当たりません。その割りには、日本人に対しては過去の事例を持ち出して、人権意識の欠如を大袈裟に罵倒してみせるのですが・・・・・。
ですから中国政府が今後10年以上発展成長が続くような声明を出していますが、そんなのは恐れるに足りません。要するに口からでまかせの、苦し紛れの言い訳に過ぎないからですね。そんなものに、早番破綻が来る事は、これは目に見えています。問題はそれが正確にいつになるのかという点にもう絞られています。
個人的には、中国(中共)は良く持って北京オリムピックまでか、そのすぐ以後に経済は破綻すると思います。それ以降はソビエト・ユニオンがかつてそうなったような分裂状態に置かれる事でしょうが、日本はできればその内戦には一切手を貸したくないものですね。
ですが、それでも難民と称して、碌でもない中国の輩が多数、朝鮮半島人と一緒にボート・ピープルとして押し寄せてくる事でしょう。そして政治難民として、日本政府により多数の受け入れを要求してくる事でしょう。我々に出来る事は現在のところ多くはありませんが、せめてあの馬鹿げたビザ免除措置や、三流大学の外国人留学制度、このうち大半は中国人と韓国人が占めている訳ですが、こんな程度の低い大学は日本には要りませんね。金儲けのために国を売るような大学には、さっさと潰れていただいて結構です。具体的な名前は挙げませんが、酒井にある大学とか、その他名前も聞いた事のないような大学などですね。
本日は如何に中国人の程度が低いかについてお話しました。また機会がありましたら、取り上げてみたいと思います。
ついでにこちらもご参照 いただけると幸いです。
テーマ:特定アジア - ジャンル:政治・経済
映画の本場と言えば、フランスとかインドとか、中国とか色々と上げられましょうが、やはり市場の規模と占有率という事になってくると、これはハリウッドが圧倒的です。
しかしこの栄光のハリウッドですが、どうも僕的な私見では、最近凋落が激しいのではないかという気がしています。
先ず一大超大作というものは相変わらず出てくるのですが、それは製作総額***億円なんていう視聴者にとってはどうでも良い話ばかりで、本当に楽しめたり感動できる作品が減りました。
そして皮相的で、いかにも一般受けはしそうなんだけれど、一回見たらもう沢山という感じの底の浅い作品が増えてきた事も大きいと思います。
製作会社もお金儲けでやっている訳ですから、これは投資した金額が回収できなければ、何のために作っているのか分かりません。
そういう事情からなのか、すぐにお金に結び付きそうな商品、例えば
ディズニー関係 なんかですね。あそこの作る作品なんかは典型的に底が浅く、手っ取り早く金になる、そういうものを狙っている気がします。
そのためには手段も選ばないようで、例えば
一番利用しやすい国民の愛国心を煽るもの を作ってみたり、もうはっきり言ってグダグダですね。何かもう主義主張といったものが置き去られて、金さえ儲かればというさもしい根性が見え見えです。
僕は白々しい恋愛ものの、例えば「
タイタニック 」なんか大嫌いなのですが、僕の好みと大衆の好みは常に乖離しているようです。これは人の好き好きなので、他人様が好きなものを僕が批判しても始まりません。ただ僕は好きじゃないというだけの事ですね。
思えばこの辺の凋落は、1970年代後半から始まっていた気がします。つまりジョージ・ルーカスが日本アニメに目を付け、擦り寄ってきた頃からですね。やたらとパナソニックのデジタル・ビデオ・カメラを持ち上げて見せる彼は、僕の目には気持ち悪く映ったものですが、やっぱり
スター・ウォーズ で R2D2 とか C3PO なんかのキャラをパクッていますね。
このロボットたちのキャラはもちろん
松本零士 氏原作の「
宇宙戦艦ヤマト 」に出て来る
アナライザー を二つに分けたものに過ぎないですね。ひとつは外観がそっくりで言葉がしゃべれず、もう一体は人型ロボットで、アナライザーのようにやたらと饒舌であるという・・・・。
僕はジョージ・ルーカスが擦り寄ってきた時に嫌な予感がしたんですね。そしたら見事に当たっちゃって、プロットまでパクラれたスター・ウォーズ様の登場ですよ。それまでの宇宙大戦ものと言えば
謎の円盤UFO とか、
スター・トレック とかですね。精々あいつらになんて、その程度の想像しか働かなかった訳なんです。
それがパクリに次ぐパクリですね。大体スター・ウォーズの中で見られる
ライト・セイバー も、当時流行り出していたレーザー・ポインターを剣に置き換えただけのものですし。
ああいう風に剣を振り回す伝統というのは、アメリカの文化にはないんですね。あれは紛れもなく「
七人の侍 」から着想を得たもので、日本文化のパクリ以外の何ものでもないですね。
まぁ、ジョージ・ルーカスにしても、スティーブン・スピルバーグにしても、当時の日本は勢いが凄かったですから、あやかりたかったんでしょうね。
でも結局はこの動きが、ハリウッド全体を駄目にしたと僕は思うんです。金にさえなれば良いという安直な考えが広がる事によって、何か良い着想は他所から盗んで来れば良いという流れに繋がったように思います。
ですからもうハリウッドの映画はつまんないものばかりですね。お金払ってまで、見る気が起こりません。映画も所詮メディアのひとつなので、他の媒体との時間の奪い合いですね。つまらなければ、他のエンターテインメントに流れるのみです。
音楽でもなんでもそうなのですが、旬というものがあるような気が僕はしています。例えばイギリスのロックなんかは1960年代初めから、80年代初期に掛けてまでですね。それ以後は急速に勢いが衰えました。
アメリカンポップスは1960年代半ば頃から、80年代半ばに掛けてですね。それ以降は、急速にビッグヒットというものが少なくなってきた気がします。
日本の場合には、音楽は1960年代には惨憺たる有様でしたね。西洋音楽の猿真似以外の何ものでもなく、当時を生きていた人にとってノスタルジーを感じさせこそするものの、今の音楽と比べるとやはり見劣りがします。
アニメは1950年代から一貫して力があり、当時からあまり大人には評判の良くなかった漫画でしたが、見事に日本のサブ・カルチャーとして花開きました。商業的に成功しているかどうかは別として、現在では百花繚乱の感があります。どれを見て良いのか迷うほどですね。
でも残念ながら、文学の分野では凋落が激しい気がします。読み口の良い、軽い読み物ばかりが売れて、あまり人生の意味を問うような、深みのあるものは敬遠されるようになってしまいました。軽薄短小というのですか。益々そういう風に時代は流れていっているようで、一文学ファンとしては、少し寂しいし残念です。
しかしこれが時代の流れというものなのでしょうね。今没落しているからといって必ずしも永久に滅んだという訳ではなく、また光を受けて再び輝き出す時も来るのかもしれません。畢竟現代人は文字なしに生きる事はできない訳ですし、「回る、回るよ、時代は回る」なんていう歌もありますから、そう信じてみる事にしましょう。
テーマ:映画★★★★★レビュー - ジャンル:映画
僕はあんまりこんな種類の漫画やアニメは見ないのですが、これは”超”日本的というか、善悪のステレオタイプが盛り込まれた、日本アニメの典型例ですね。
子供に正義と悪を教えるという事なのでしょうが、そもそも悪人が「ばいきんまん」みたいに面白くて、お茶目で、可愛げのある奴の筈がありません。それをパンチひとつでやっつけてしまうなんて、これは{アンパンマン}というのは恐ろしく暴力的で、絶対正義を信じている狂信者なんでしょうね。アンパンマンの顔を
ブッシュ に、ばいきんまんのそれを
金正日 に、ドキンちゃんのそれを
ノムヒョン か
金大中 に置き換えみると面白いと思うのですが、そういう政治的お遊びは許されないんでしょうね、きっと。
たぶん北朝鮮辺りでは、ばいきんまんの顔が
ブッシュ になっており、ドキンちゃんの顔は
日本政府 になっている筈です。この場合にはアンパンマンは我らが偉大なる将軍様、
金正日 同士、マンセ〜ですね。この方がアニメとしてもある意味面白いかもしれません。キム同士とユカイな仲間たちですね。
さて、
こちらにそのオープニング曲があります 。誰でもどこかで耳にした事があるような、そんなメロディですね。歌詞はこんな具合です。
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
なにが 君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
う〜ん、この歌詞を見ていると、本当にこんなものを子供に聞かせて良いのかどうか疑問に思いますね。作詞者は単なる馬鹿か、それとも自分の価値観や正義を疑ってみた事もない偽善者なんでしょうか?ステレオタイプなものの見方による価値観の一方的な決め付けがここには顕著で、見るに耐えないものがありますね。
先ず「愛と勇気だけが友達」って、何だよ、それは、と突っ込みたくなります。愛という言葉の意味が分かって、この作者は書いているのか甚だ疑問ですね。
愛については以前にも書きました のでここでは省略しますが、勇気は野蛮性と思考の停止に繋がり得るものですね。必ずしも勇気があるから良いとは言えないと思いますし、勇気はしばしば客観性の欠如と根性論、そして時に狂気と近しいですね。そんなものが友達ってあなた、大丈夫ですかぁ?
なにが君の幸せかなんて人それぞれで、他人の知った事じゃないですね。何をして喜ぶかは、他人に迷惑を掛けない範囲において、自己責任で決めれば良い事だと僕は思います。
分からないまま終わるなんて、そんな事は人生においては良くある事です。むしろ何でも分かる事の方がおかしいですね。何でも分かると言う人がいたら、それはかなり頭のおかしい人です。それは嫌だと言うのですから、これはもうキチガイになるしかないですね。何でも分かりたい、そうならないと嫌だと宣言しているんですから、これはもう立派な狂人です。
夢を忘れないのは大切な事かもしれませんが、夢というのは叶わないから夢なんですね。自分でコントロールできないから夢というんです。ですから忘れようと忘れまいとそれは個人の自由だと思うのですが、あまりにも夢というものを重要視し、現実を見失ってしまう事の方がはるかに危険で深刻な状態ですね。
また涙を流すというのは、悲しい時には出て来る人間の自然な心の働きで、悲しいから涙が出るんですね。それを悲しむな、涙を零すななんて、人間性に反した無理強いも良いとこです。「一週間ウンコするな」とか、「廊下で三時間、ずっと立ってなさい」というのと同レベルですね、これは。作者はスパルタ教育のスペシャリストか何かで、非人間的行為を平気で他人に強要する人物のように見受けられます。たぶん単なるサディストの変態なのかもしれませんが。
だから君は飛ぶんだ、何処までも。たぶん根性で手をバタバタさせて、それで空を飛べると考えているのでしょう。崖の上から飛び降りて、一度それが実行可能かどうか試してみたら良いですね。もちろん僕はそんな事には同意しません。やるんだったら、お一人でお好きにどうぞ。
そうだ、恐れないで、みんなのために。出ましたね、日教組のお得意のフレーズです。昔は小学校の黒板の上に、「
一人はみんなのために、みんなは一人のために 」なんていうお題目が堂々と掲げられていたものです。小学生の内はこの言葉に疑問も抱きませんでしたが、考えてみればこれは怖い言葉ですね。今でもこういう馬鹿教師はいて、相も変らぬお題目で人を欺き続けています。大人として物事を普通に洞察する事さえできない、それなのに小さな子供に無意味な言葉を吹き込み続けている、教育者としては最低の屑ですね。
「みんなは一人のために。」天皇陛下のためにご奉公しなさいという事でしょうか?「一人はみんなのために。」自己犠牲を払っても全体の利益のために、組織のために滅私奉公しなさいという事でしょうか?いずれにしても空疎な中身のない言葉遊びで、現実とは程遠いものですね。人類の理想にすらなり得ないほど低俗な考え方です。大体これの元が
アレクサンドル・デュマ の御伽噺である、
三銃士 の合言葉だという事が分かった上で言っているのか疑問ですね。
三銃士というのは
ダルタニャン物語 の最初のエピソードで、仲良しになった兵隊3人とダルタニャンが、団結を誓い合う時の合言葉として使った、来たるべき争いのための言葉ですね。だからフランスの原語では、"Tous pour un, un pour tous"と言います。訳すと「みんなは一人のために、一人はみんなのために」というくらいの意味です。つまりは面白おかしく書かれた小説中の言葉遊びに過ぎないのに、それを頭から信用するなんて本当に馬鹿ですね。
こんなものを小さな子供に教えている教育者は狂っていると僕は思いますが、世のお母さん方がこのアンパンマンなるアニメを何の抵抗もなく受け入れ、善悪を教えるためにはむしろ好ましいものとして捉えている現実の姿が滑稽というか、奇妙というか、むしろ恐ろしくさえ感じられます。こんな事で本当に良いのか日本、というのが僕の正直な感想です。
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精神病 というのは、文字通り精神に病気を抱えている人、つまり
精神疾患 を病んでいる人と言い換えても良いと思います。以前は精神病の患者は劣った遺伝子を持つものとして忌み嫌われ、ナチス・ドイツにおいては厳しい迫害の対象となったといいます。
ところで精神病の定義なのですが、これが医学的なものから大きな括りのものに到るまで、かなり漠然としているのが実情です。
医学的には、精神病とは「統合失調症、双極性障害、てんかん」等の内因性の心疾患の事を指します。しかし精神疾患全般を精神病と呼ぶ人もおり、これには例えば「パニック障害や鬱病、人格障害」等も含まれてきます。
つまりこうなると多かれ少なかれ人間である以上は抱えているに違いない心のキズや性格の歪み全体を指した言葉になる訳で、精神病と一言で言っても、簡単には片づけられない問題があります。
先ずはこの辺の言葉の定義から始めなければならないところなのでしょうが、今のところは諸説紛々で、医学界がこれが絶対だという基準は決められていないようです。
仕方がないので、とりあえず
世界保健機構 (WHO) の定めた国際疾患分類(
ICD-10 )や
アメリカ精神医学会 による統計的診断マニュアル (
DSM-IV )において、便宜的に分類されているに過ぎません。しかもその分類自体の妥当性に対し、しばしば疑問の声が上げられているほどです。
つまりそれほどまでに、精神病というのは曖昧模糊とした概念なんですね。そんな訳ですから、病気の治療に当たって的確な診断が下され、更に最適の治療行為が施されているとは言いがたいのが今日の実情だと思います。
だってそうでしょう? 病名も分からずにお薬を与えたり、治療行為を行っているとしたら、これはおかしな事ですし、場合によっては危険極まりない事ですね。ガンの患者に風邪のお薬を与えていると仮定してみてください。その頓珍漢振りが良く理解できます。
しかし脳内部で起こっている病気である精神病の場合、中で本当に何が起こっているのか、科学的な事実は未だに分かっていない部分が多いですし、多くの場合には仮説に基づいてお薬の開発が進められたり、あるいはただの睡眠薬系のお薬ですね。脳の作用を一時的に麻痺させるような、そんなお薬が使われているのが本当です。
思うに正常人と精神的異常者との線引きは、非常に難しいものがあると思う訳ですね。正常人として活動している人にだって変な人は一杯いますし、精神異常者として治療を受けている人たちの中にも、「この人何処が悪いんだろう?こんなに良い人なのに。」という例が一杯あります。全ては捉え方ひとつで違って来る訳で、この意味では両者の区分は限りなくグレーに近い白、若しくは黒ですね。白い牛乳の中に黒い墨を少しずつ混ぜていけば、何処からが白で、何処からがグレー、何処からが黒という区分が限りなく怪しくなって来ます。
僕の意見では、精神病なんて所詮その程度のものですね。確かにおかしい事はおかしいのでしょうが、何処がどうおかしいのか、正常人と、または以前と比べて何処がどう狂っているのか、これは自分にも判断できないくらいです。
ですから良くマスコミなどで「また精神異常者が犯罪を犯しました!」なんてヒステリックに叫んだりしてしますが、所詮その程度の違いしか見出せない訳ですから、これは世論のミスリード以外の何ものでもありません。むしろ平気でそんなミスリードの記事が書ける記者やマスコミ各社の方が、精神構造としては歪んでおり、狂っているのかもしれません。
マスコミの頓珍漢振りについては以前にもここで述べました ので、今回は割愛させていただきます。ただ一般の方に考えていただきたいのは、精神医療における正常と異常なんて、所詮その程度の差しかないのではないか、この点です。精神病と名が付くからキチガイだと決め付けて、偏見を持った目で蔑む、少なくともそんな愚かな事は止めていただきたいものです。
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アール・イー・エム (
R.E.M )の大ヒット曲、
ルージング・マイ・リリジョン( Losing my religion ) です。今日でもそうなのですが、徐々に世界の宗教や文化の壁が壊れ、ボーダーレスになっている社会の不安と病巣がうまく捉えられている歌だと思います。
メロディックなサウンドの中に、重い歌詞が散りばめられているのが特徴で、白人バンドとしてレゲエの紹介者だったポリス( Police )やパンク・ロック・バンドの影響が強く見られます。両者ともに、音楽業界において既存の価値観の破壊者という意義を秘めています。この曲は売れに売れて、
グラミー賞まで取ってる んですね。
以下に僕の聞き書きの歌詞を書いてみます。
Losing my religion by R.E.M : 1991
Oh, life is bigger
It's bigger than you
And you are not me
The lengths that I will go to
The distance in your eyes
Oh, no, I've said too much
I set it up
That's me in the corner
That's me in the spot light
Losing my religion
Trying to keep up with you
And I don't know why I can do it
Oh, no, I've said too much
I haven't said enough
I thought that I heard you laughing
I thought that I heard you sing
I think I thought I saw you try
Every whisper
Every waking hour
I'm choosing my confessions
Trying to keep eye on you
Like a hurt, lost and blinded, fool, fool
Oh, no, I've said too much
I set it up
Consider this
Consider this
The hint of the century
Consider this
The slip
That brought me to my knees failed
What if all these fantasies
Come flailing around
Now I've said, too much
I thought that I heard you laughing
I thought that I heard you sing
I think I thought I saw you try
But that was just a dream
That was just a dream
That's me in the corner
That's me in the spot light
Losing my religion
Trying to keep up with you
And I don't know why I can do it
Oh, no, I've said too much
I haven't said enough
I thought that I heard you laughing
I thought that I heard you sing
I think I thought I saw you try
But that was just a dream
Try, cry, why try?
That was just a dream
Just a dream, just a dream
Dream
プロモーションビデオでは、いきなり大きな地震らしきものが来るシーンから始まるんですね。既存の価値観の崩壊を予言しています。ですから宗教を失ってしまう、信仰がなくなってしまうという事ですね。神なんて所詮人間が都合良く作り上げたものに過ぎませんから、これは結局知恵が発達してくると最終的にはこうなります。他人の言う事を頭から信じ込むのではなくて、自分で考え出すんですね。でもこれは一面で危険な事でもあります。
つまり自分自身の足で立たなければならない、自分で進むべき道を探し出さなければならない、何もかも自分で考え、自分で判断する事に繋がってきますね。これは考えてみれば恐ろしい事です。つまり疑い出してみれば、物事なんて何処まで行ってもこれは終わりがありませんね。ですから幾ら言っても言い足りない、これはごく当たり前に辿り着く結果ではある訳です。自分でキチンと答えを見付け出せる人ばかりだと良いのですが、世の中そんなに甘くありませんね。運が良ければ見付けられるでしょうが、運が悪ければ、これはもう絶対に見付かりっこありません。これは能力が優れているかどうかなんて事はもう関係なく、ただ運ですね。才能というよりは、もって生まれた宿命と言うか、運命です。
では以下に僕なりの意訳をしてみたいと思います。僕の英語力は何度もお断りしていますように貧しいものですから、間違いが見付かっても、それは笑って見過ごしてくださいね。あるいはご親切な方は、コメント欄から教えていただければ、後ほど修正させていただきます。
おぉ、人生は(考えていたよりも)大きいんだ
それは君よりも大きいくらいなんだ
そして君は僕じゃない(僕は僕だけの存在なんだ)
僕が行くことになるであろう果てしない長さ
君の瞳との間にあるその遠い距離
おぉ、ごめん、僕は言い過ぎちまったんだ
取り消して、初めからやり直すよ
隅っこにいて追い詰められているのは僕なんだ
そのスポットライトが当たっているのは僕なんだ
信仰を失っているんだ
君についていこうと努力しているんだ
そして僕にはなぜそれが僕に出来るか分からないんだ(絶対にできっこないんだ)
おぉ、ごめん、僕は言い過ぎちまったんだ
でも、まだ十分に言い足りないんだ
僕は君が笑っていたように思ったんだ
僕は君が歌っていたように思ったんだ
(でも本当は)僕は君がそうやっていたのを見たという気がするだけなのかもしれない
どんな囁き(や印)にも
起きている時にはいつも
僕は色んな懺悔を選んでいるんだ
君に目を向けようと試みているんだ
まるで傷付いて、道に迷って、盲目で、馬鹿で、馬鹿なんだ
おぉ、ごめん、僕は言い過ぎちまったんだ
取り消して、初めからやり直すよ
このことをじっくり考えてみると
このことをじっくり考えてみると
世紀のヒントなんだ
このことをじっくり考えてみると
失敗なんだ
それが僕をがっくりと跪かせるんだ
もしもこれら全ての空想が
叩き出されてしまったらどうなるんだろう?
今また、僕は言い過ぎちまったよ
僕は君が笑っていたように思ったんだ
僕は君が歌っていたように思ったんだ
(でも本当は)僕は君がそうやっていたのを見たという気がするだけなのかもしれない
でもそれは、ただの夢だったんだ
それは、ただの夢だったんだ
隅っこにいて追い詰められているのは僕なんだ
そのスポットライトが当たっているのは僕なんだ
信仰を失っているんだ
君についていこうと努力しているんだ
そして僕にはなぜそれが僕に出来るか分からないんだ(絶対にできっこないんだ)
おぉ、ごめん、僕は言い過ぎちまった
でも、まだ十分に言い足りないんだ
僕は君が笑っていたように思ったんだ
僕は君が歌っていたように思ったんだ
(でも本当は)僕は君がそうやっていたのを見たという気がするだけなのかもしれない
でもそれは、ただの夢だったんだ
やってみて、泣いて、でもどうしてやる必要があるんだ?
それはただの夢なんだ
ただの夢さ、ただの夢なんだ
夢
何とも虚しい感じが残る曲ですが、同時に印象深くもありますね。宗教なんて信じたもの勝ちで、「信じるものは救われる」と昔から言いますね。確かにそうなのかもしれません。信じるという事は、言葉を換えれば疑わないという事です。疑わないで頭から信じているから、信仰なんですね。疑い出すと、もうこれは信仰ではない訳なんです。
ですからイスラムの過激派がアメリカの
ワールド・トレード・センター・ビル に
9月の11日 に飛行機で突っ込んだあの大事件がありましたけれども、彼らはみんな信じていたからあれをやったんですね。自分たちが正しい、自分たちの価値観が間違っていないと思ったから、あれをやってしまった訳です。疑っていたら、初めからあんな事はしていませんね。信じていればこそです。彼等の言う神とやらをですね。元々あのテロリストと呼ばれている人たちは教養のない、馬鹿な人たちではないですね。むしろ高等教育を受けた、考察力の高いエリート中のエリートです。そんな人でも疑う事を止めて、人の言う事を信じ込んでしまったら、何をするか分からないんですね。オウム真理教だろうが創価学会だろうが統一教会だろうが、これは普遍的に変わりません。所詮人間という存在が、その程度のものだからだからですね。
これは第二次大戦中に「天皇陛下万歳!」と叫びながら、ゼロ戦などの飛行機でバンザイ・アタックをしていた日本人にも同じことが言えます。人間魚雷の回天とかね。当時の彼らは正しい事だと信じていたからこそあれをやったのであって、今日の若者に「天皇陛下のために死んで来い」なんて言うと、逆に「糞食らえ!」って言われると思います。それで良いんですね。そんな事言う人は、糞でも食ってれば良い訳です。天皇なんかのために死ぬ事はないですね。所詮赤の他人ですから。天皇制が守りたければ、天皇は自分で戦いに出れば良いだけの事です。他人の知ったこっちゃありませんね。
でも例えば自分の家族を守るために戦いに出てくれと言われれば、これは話が別ですね。おそらく大半の男がこの問いには、「はい」と答えるでしょう。畢竟男というものは、そういう風に作られている生き物だからですね。ですからアメリカの大統領が「神のために」( For God`s sake )とか言ってイラクに兵士を派遣しましたけれども、あれも端から見てると非常に変ですね。イラクにはイラクの神があり、アメリカにはアメリカ流の神がいる。単なる宗教と文化の衝突ですね、これは。こうなって来ると、もはや信仰や思想・信条上の問題に過ぎません。
ジョージ・ブッシュさんが親子に渡って非常に低いIQしか持ち合わせていないという事は、アメリカンジョークになる程広く知れ渡っています。確かに親子二人ともにIQ80代半ばですね。アメリカ合衆国の歴代の大統領においても、際立って低い数値です。日本で言うと中学生並の脳ミソですか。これはかなり馬鹿な水準と言って良いと思います。でも一概にIQが高いからと言って、必ずしも人間性に秀でているとも限らないし、判断力において劣るという事も言い切れません。単なる能力試験のひとつに過ぎないんですね、IQなんて。という訳で、まぁ、どっちもどっち、冷静になって考え続けてみる、これが一番良い道のような気がします。
※リンク切れが見つかりましたら、コメント欄より教えていただけると幸いです。
テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽
さて、俺は無事ニュージーランドに辿り着いて、宿にもあり付けた訳だが、先ずは滞在ビザの問題を何とかしなければならなかった。ビザは日本でもらった許可証だけでは足りず、ニュージーランド本国のイミグレーション・センター、つまりは移民の出入国を管理している役所な訳だが、そこでの最終チェックにパスする必要があった。
この審査は基本的に滞在に足るだけのお金を所有しているか、帰国のための有効な手段、例えば帰りの航空券を持っているか、過去に犯罪歴などはないか、後はこの国の法律を遵守する事を認める書類にサインすれば、比較的簡単に出してもらえる。正直言ってご大層な割には、「エッ、こんなに簡単なの?」という感じだが、何よりも重要視されるのはやはり経済的な裏付け、つまり金を持っているかどうかである。
ニュージーランドは国を挙げての観光大国であり、如何にビジターにお金を落としてもらうかが彼等の最大関心事である。と言うよりは、金以外に黄色人種なんぞに興味は全くないと言うのが正直なところだ。だからお金さえ用意しておけば、彼らはホクホク顔で迎えてくれる。これが金銭的裏付けがないという事にでもなると、手の平を返したようにつっけんどんになるのだが。
俺はとりあえずこれらの事を自分で学び取り、そしてイミグレーション・オフィスを探し出して、オークランドの街の中を歩き回った。少しでもお金を節約したい俺にとっては、バスやタクシーを使う事は贅沢に思えたし、足で歩けば異国の街の風情も味わえるというものである。ニュージーランドは観光立国だけあって、英語さえ出来れば各所に配置されたビジター・インフォメーション・センターで情報が得られる。
オークランド市は広い街だったが、中心街はごく限られた区画だった。だから一日に30キロも歩く覚悟があれば、大抵の用は済ませてしまう。それでも回り切れないほどの遠距離なら、自転車を一日レンタルすれば良い。自転車なら燃料や保険代も支払う必要がないし、100キロ圏内なら何処へでも好きなところへ出向く事ができる。お金は確かに20ドル前後掛かるだろうが、タクシーやバスの料金に比べれば、その自由度と融通の効く点から言って、一番割安な乗り物である。唯一のドロー・バックは雨に弱い事と、ニュージーランダー(彼らは自分たちの事を代表的な国鳥であり果物である Kiwi になぞらえて、そのままキィウィと呼ぶ)の乱暴な運転だが、この点は注意する他ない。かの国では一般道の最高スピードは100キロと決まっており、120キロ程度で運転するのもそう珍しい事ではない。だから当てられたり轢かれれば只事では済まないが、ただただ注意するという一点に尽きる。
さて、俺の怪しい英語はやはり街中でも通用せず、俺は大いに焦ったのだが、本を読む事は何とか可能だった。一般的に言って、日本の英語教育では読み・書きが中心に行われており、文法やイディオムなどの小テストは煩雑にあるが、会話を前提とした授業は少ない。あっても、およそ役に立たない代物ばかりである。だから日本人の英会話能力、特にリスニング能力は絶望的に低い。
大体学校の英語の先生からしてまともにしゃべれないような奴が教壇に立っているのであるから、生徒がその先生を凌駕する事などあり得ない。日本人の英語能力の低さは、これすなわち日本人教師の質が如何に低いかという事の反映に過ぎない。テストにされ通れば良いというのが、日本人教師の相も変らぬ考え方であるようだ。
だから日本では教師というのも試験によって選抜される。つまりはペーパーテストを通っただけの薄っぺらな人間がなる職業だから、そんな教師が学校で教える内容も、如何に良い大学に多くの生徒を送り込むかといったような、薄っぺらな理由によって授業が運営されている。そこには本来必要とされている筈の、国際競争社会に通用するような英語教育の実践という理想は無視されているのが実情だ。
だから生徒たちは余分な金を親に払ってもらってまで、学校が引けた後に通っている学校とは別の塾に、わざわざ通うのである。そして夜遅くまでそこで勉強する。ゆとり教育というのは先生たちが公務員として週休二日制を実現するために、日教組を通じてごり押しして来た自分たちの利権誘導のための待遇改善運動の成果に他ならず、皮肉な事にその結果として、自分たち自身がそのもたらした結末、つまり生徒が民間経営の塾でより優れた先生からはるかに面白くて進んだ授業を受けられるため、本来の役割を果たすべき学校の授業自体を軽く見、役に立たない先生どもを馬鹿にし、真面目に授業に耳を貸してくれない。そして当の先生は無能であるので、この事態の改善に取組めるほどの余力も能力も持ち合わせていない、そういう事である。
だから学級崩壊は家庭教育の崩壊と道徳心の欠如がもたらしたものだという見方があるが、俺は公務員としての先生自身が自ら招いたものでもあると思う。子供も大人もどちらも五十歩百歩で、どちらかが一方的に悪いというものでもないと考える。
さてさて、話が脱線してしまったが、ニュージーランドは確かに民主主義の国だ。しかしそこはかつてのイギリスの植民地であり、今でもその影響が根強く残っている。イギリスのエリザベス女王はしょっちゅうテレビに顔を出すし、ニュースはBBCのものが流されている。ものの考え方もアングロ・サクソンの価値観により強く歪められた、バイアスのかかったもので、我々日本人は中国人や朝鮮半島人と同じ三等国民扱いである。例えば日本を報道する時には東大の学生、それもわざわざ英語の出来ない奴を選んで、そのインタビューをTV放送で流し、「これが日本で一番の大学と言われている学生の意見です。」とやる。当然英語がしゃべれない奴を選んで放送している訳だから、視聴者は日本人というのは英語さえしゃべれない、何と馬鹿な奴らである事かと心の中で思う事になる。これが悲しいかな現実であり、彼等流のやり方である。一言で言ってしまえば「黄色い猿」、それが彼等の本音であるが、日本人は金を持っているというので、表面上はホクホク顔で接しようとする。それをキウィ・ホスピタリティとして自慢さえする。伝統的な英国人気質というのは、「外交上手」、つまり有体に言えば何食わぬ顔をしてニコニコ笑いかけておきながら、後ろで銃を握っている、そういう陰険な連中である。
だから日本人がかの地で馬鹿にされているのを見ても、怒ったり悲しんだりしてはいけない。ただ事実を見てさえいれば良いのである。朝鮮や中国から移住した連中がさも日本人ぶってオークランド近郊に移住している様を見ても、本当の日本人として苦々しく思ったりするかもしれないが、彼らとしては馬鹿にされまいと必死なのである。中国や朝鮮半島人というのは、所詮そういう見栄っ張りな連中なのであるから。
本屋に行き、かの地の釣り情報を調べてみる、これから回るべき地域の地図を手に入れる、そして現地の釣具屋で情報を仕入れてみる。しかし釣具屋などというものは、所詮釣具を買ってくれるお客さんに対して愛想良くするところなので、そんなところで得られた情報はあまり役に立たない事がほとんどである。習うよりも慣れろ、最低限のマナー、つまりフィッシング・ライセンス(日本で言うところの入漁証)とレギュレーション(かの地では釣り方やバグ・リミット:一日にキープして良い魚の数とサイズ、禁漁時期と厳格な禁漁区間の設定)が非常に厳しく徹底されているから、これらは絶対に守る事である。もしもどれかを破ったりしたら、他の釣り人から密漁者として密告されたり、パトロールの漁業局の管理人に問い詰められたり、最悪の場合には法律違反として警察に捕まり、挙句は強制送還という処置が待っている。郷に入れば郷に従え、ローマにいる間は、ローマ人のやるように物事を進めるのが穏当だ。
長くなってきたので、続きはまた今度ということで。
「
放浪の釣り旅 続く 」
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